1884年サンクトペテルブルグ生まれ。ギムナジウムを卒業してサンクトペテルブルグ音楽院で、エッシポワにピアノを、グラズノフに理論を学ぶ。1905年(21歳)ラフマニノフ作曲「ピアノ協奏曲第2番」の初演で、ラフマニノフ自らの指揮にピアニストとして参加。1906年(22歳)よりライプチッヒに移住、ニキシュに指揮法を学ぶ。1908年(24歳)よりベルリンでピアニスト、指揮者、著作家としての活動を本格開始。1921年(37歳)フルトベングラーの招きによりベルリン音楽大学ピアノ科教授に就任。1926年(42歳)より演奏旅行で3度アメリカを訪れる。1931年(47歳)初来日。その後ナチスにより公職追放、1935年(51歳)アメリカ旅行のあと来日し、そのまま帰国しなかった。1937年(53歳)東京音楽学校(現東京藝術大学)教授。1944年(60歳)には日本でも公職追放にあった。戦後復職したが、いずれも地でも戦時の迫害を受け活動が妨げられたにも係らず、優れたピアニスト、指揮者であるとともに、教育者として功績を残した。1952年(68歳)で豊子と結婚。1953年(69歳)演奏中に倒れ、逝去。日本のクラシック音楽界への功績を讃えて、藝大・奏楽堂前の庭には彫像が立つ。






写真:レオニード・クロイツァー


写真:藝大・奏楽堂前庭に立つ彫像
     
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